2014年3月11日、東日本大震災から3年が経過しました。東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
現在も気仙沼市では233名の行方不明者がいます。気仙沼復興協会(以下KRA) ボランティア受入部でも2013年12月11日から月命日に気仙沼警察署と連携し、集中捜索および清掃活動を行っています。1日でも早く、一人でも多くの方がご家族のもとに帰れるよう願っております。
KRA設立から現在まで振り返ると、清掃部は設立当初から活動していて、重機が入れないような被災家屋の泥出し、清掃、壁・床剥がし、側溝清掃、耕地清掃や殺菌・消毒作業など震災からの復興に直接関係する活動を続けてきました。まさにKRAを支えていたのは清掃部といっても過言ではありません。
スタッフ数も多いときには清掃部だけで50名を超える頃もありました。しかし、月日の経過により作業ニーズはどんどんと変化し、草刈作業中心の時期もありました。さらにはイベントのお手伝いに引っ張りだこになった時期もありました。そんな清掃部も2014年3月現在では所属人数は13名で2班体制となり、作業内容に関しても被災者の自立支援を促す意味で、個人ニーズではなく市からの依頼を受ける形に変わっていきました。
また、この1年間で気仙沼市はどう変わったのでしょうか。大きな話題では鹿折地区にあった大型漁船第18共徳丸が昨年9月に解体され、震災遺構として残すことはできませんでした。これは良くも悪くも、気仙沼市民に対して行ったアンケートを反映した結果となりました。
最近では階上地区にあった県立気仙沼向洋高校が震災遺構の候補にあがっています。向洋高校は海から200メートルと近く、付近に高台がないこともあり、震災時にはこの校舎に逃げ込み、多くの命が救われました。しかし、津波が校舎の4階まで押し寄せ、被害の大きさから現在は使われておりません。東日本大震災のことを後世に伝えるためには、映像などの資料はもちろんですが、被災したものを残すことも必要だと個人的に思います。
今年も自宅のあった付近の高台から撮影してみました。2013年と2014年の違いをご覧ください。
2013年3月9日撮影
2014年3月9日撮影
昨年と比べると、重機が見えなくなったこと以外、正直変わりません。この地区には人が住むことができないため、新たなまちづくりが行われるまではこのままなのかもしれません。
しかし、大きく変わっている場所もあります。下記のような造成工事が各所にみられるようになりました。
元々ここは木がうっそうと生い茂った山でした。防災集団移転ならびに災害公営住宅を作るための造成工事が始まっています。以前は瓦礫撤去のために大型トラックが多く走っていましたが、最近ではこのような造成工事のための大型トラックが走っています。撤去のためのトラックから復興のためのトラックといえるのでないでしょうか。
ここに、あと2年~3年経てば家が立ち並ぶことでしょう。出来上がりを考えるとワクワクする部分もあります。しかし現実に目を向けると、多くの人はその2~3年は仮設住宅で暮らすことを余儀なくされます。一日も早く新住居での生活を迎えられるよう切に望みます。
東日本大震災から3年が過ぎ、風化している実感は正直あります。おそらく1週間後のテレビなどでは一切報道されないことでしょう。しかし、本日3月11日も全国からボランティア活動に来ていただいている方もたくさんいます。改めて被災地のことを忘れないでくださることに感謝申し上げます。
今後も気仙沼ならびに被災地のことをほんの少し気にかけて頂ければ幸いです。
(茂木)